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  13章 『あの日』を忘れない
小林 文雄 
 
         
 

○ [最後となった「あの日」の会話]
 1月16日(月)、新春もあらたな正月気分である。朝から快晴に恵まれ、気温は低く、吐く息も白く真冬の季節感を味わった。

 午前7時20分坂出発のマリンライナーに乗車すべく、羽床から冨秦氏次男泰広君が運転する車に橋本夫妻、私の4人が坂出駅まで、高松から横井夫婦が乗り、同マリンライナーで神戸に向かった。

 朝から眩しいほどの陽光に照らされ、プラットホームに立つ。橋本夫婦は父の法要のお詣りとあって、賢治兄は理容し男前、弘子姉はまた立派な衣装で一段と円熟した夫婦の旅立ちであった。

 マリンが着く。朝早いが上方への乗客は多く空席は余り見当たらなかったが、6人が同一席とはならないが座ることが出来た。

 横井兄夫婦もまた一段と映えていた。姉妹並んで座り、その後に私は立ち岡山迄の道程である。

 瀬戸大橋が近づく。なんと素晴らしい瀬戸内の光景だろう。姉達2人はその光景に見惚れ、且つ、父の思い出や兄弟等々との再会に、その喜びをかくしきれない心境を私も頭に浮かんでいた。

会話……こうして揃って神戸に行くこと、兄弟一緒に揃うことももう無いんだろ
  うなあ……そりあそうや、お互いに明日の命、こうして元気であることも解
  らへん……。

 不思議にこんな会話が耳に入り、私はお互いに、「今日の元気で明日からも頑張って、次の伯父の13回に、また次と……詣らしてもらおうぜ……」こんな交わした言葉が脳裏を離れない。

 岡山から神戸まで新幹線。

 ひかりの自由席は混雑の様子から、こだまに乗車した。自由席のため同一車輌のバラバラの座席であったが、横井等兄はアルコールも好きな方で、楽しく飲み神戸駅下車の際は気分上々の様子であった。

 法要の時間まで余裕もあり、下車して地下鉄に乗り継ぐ迄に一服しようと、一行6人がホームの喫茶店に足を入れた。

 等兄はその間どこで缶ビールを仕込んだか、買い占めて私達にふるまってくれたが、その時の嬉しさいっぱい、おだやかな笑顔で話す会話は、姉妹達を包んでしまった。和子姉も「しやないなあ」……主人の好いた虫満足感の接待に、共に満足の笑顔と胸中が伺えた。

 法要は午後3時から営まれ伯父の遺徳をしのび、親類の方々、檀家の方々、大勢のお詣りで盛大おごそかに執りおこなわれた。本山からの僧侶、順照寺住職義孝、次世を継ぐ秀樹住職を中心に関係寺僧の読経でしめやかに終えることが出来た。

 会食は法要の後夕方にかけ、板宿の中華飯店「三彩」での一流料理をご披露され、出される品々、口にしたこと無く舌鼓をうち美味しく頂戴した。

 この間、兄弟親類の面々、久し振りのこととて会話もはずみ盛会であった。等兄、弘子姉共々大変よろこび、「こうした次の機会に来れるだろうか」……虫が知らせたのかこんな会話を出席者に何度も話しかけたと聴いている。

 宴席から一行寺に帰る。酔気嫌でみな楽しく声は高い。宴席で美味しい酒をいただき、そのラオ酎を、等兄が戴いて来た。再度おひろめである。

 またその雰囲気で、寺の庫裡で杯を交わし今日の日を満喫した。

 冨秦氏は明日の仕事の関係から、午後8時に神戸を発ち、11時頃に無事着いたと電話が有り一同安心した。時間が経つのも忘れそれ迄話に花が咲き、明日にも出産を控えた隆子さんもご主人前田由文様と共に座し祖父の法要で故人をしのんだものである。

 私は風邪気味でお風呂の案内もあったが、おことわりし、下着の上にパジャマをつけ、床を準備してくれた御本堂に行き床についた。

 先に横井兄夫婦が布団に入っていたと思う。私は東の端の空いた布団に入った。布団は隙間を余り空けず整然と敷かれ、手を伸ばせば触れ合う間隔だったと思い浮かべる。

 すぐ隣の布団では、横井兄夫婦の愉快な楽しい会話である。子供のいない仲睦まじい円熟した夫婦の会話……宴会のラオ酎の酔いの勢いもあり面白い楽しい会話のお遊びである。橋本兄夫婦もその隣で耳にしていた事であろう。クスクスとその笑いを耳にした記憶が今に頭に残る。

 「今日は良かった。楽しかった」伯父様の前で子供達は仲良く寝させてもらいます……こんな気持ちで何時の間にか寝入っていた。

平成7年1月16日、震災前夜  善本秀暁7回忌法要の後の宴会
 
 

 
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