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  16章 震災の記憶をたどって
松内 昭徳 
 
         
 

 阪神大震災の記憶文を綴るにあたり、先ず、故横井等氏、橋本弘子様を始め犠牲者6432名の方々の、ご冥福をお折り申し上げます。6年前の平成7年1月17日早朝、大きな揺れで目が覚めた。早速地震情報を知ろうとテレビをつける。即座に、本日午前5時46分、神戸、洲本で震度6、高松で4、の地震があったと報ぜられた。後での報道に依ると、阪神大震災激甚被災地神戸長田区では、M7・3の激震で、目覚めた時の未体験の恐怖、そして破壊であったと知らされた。

震災の様子

 当時、私は定年後の再就職のため、丸亀市にある高等職業訓練校で職業教育を受けていた。その日も通っていた。授業中頭の中をよぎったのは、1月中旬神戸で法要があり、小林文雄さんが参詣すると聞いていたので、帰宅しているか、どうか、が気掛かりだった。1日の授業時間が長かった。帰宅後電話で、小林の妹(孝子)に尋ねると、神戸へ行ってまだ帰っていないと言う。大丈夫だろうか、連絡はまだないと言う。心配になってきた。こちらからの連絡がとれず、文雄さんからの電話を待つだけだった。テレビを見続けた。テレビは被災地の様子を写し出していた。横倒しになった阪神高速道路や、市内の無残に倒壊したビル。神社の全壊した哀れな映像である、そして犠牲者の名前が出るようになって来た。その中で香川県の橋本弘子さんの氏名を見つけた。

 大変深刻な事態になって来た。桑嶋冨秦氏が小林宅を訪ねようと立ち寄ってくれた。私も後を追って訪ねた。前後して親戚の人達が大勢集まった。桑嶋さん夫妻、横井清さん、正明さん、松内明敏さん夫妻、他にも居られたと思う。皆、深刻な面持ちで情報を待った。神戸の親類からの連絡では、橋本弘子さんと姉婿の横井等さんが逝くなられ、小林文雄さんは怪我をして病院へ搬送されたと知らせがあった。集まった者が夜を徹して相談しあった。妹(孝子)は、文雄さんの入院先が判れば今直ぐにでも現地へ行きたいと、気持ちを表した。

 やがて待望の文雄さんから病院の先生を通じて「国立神戸病院へ入院している」との電話が入った。翌1月18日になった。神戸の親類から「今はこちらへ来られるような状態ではない」と言う。行くに、行けない。孝子はどうしても足を運びたい。行き着くところまで行って後は歩いてでもとの強い要望で、清文君と、私と3人で車で行くことにした。準備を整え夕方4時半小林家を出発、小豆島へ渡り、福田港から姫路ヘフェリーで、そして陸路病院へと。夜のためか交通規制もあまりなく、午後11時に到着、病室を見舞った。文雄さんはベッドに寝かされていた。腰椎、骨盤骨折だと言う、命に別条はないと聞き少しは安堵する。孝子が弁当にむすびを持って行ったので相部屋の付き添いの方にも差しあげ、朝から何も食べていないのでと、大喜びで頬張ったと聞く。もう遅い時間なので一目面会し廊下で寝袋で眠った。

 
 

 
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