地域のために震災復興事業の紹介記念誌「阪神・淡路大震災の記録」映画「ありがとう」映画「ありがとう」 記念誌「阪神・淡路大震災の記録−鎮魂と復興の願いを込めて−」
     
 
  13章 『あの日』を忘れない
小林 文雄 
 
         
 

○ [九死に一生、他力のお蔭]
  姉和子さんと大声で励まし合う。和子さんは打身で怪我もない様子(後から判ったことであるが頭を強打、裂傷し重体の有様だった)声は高いし怪我の状態もわからないことから、とにかく失神しそのままになってはいけないと声をかけた。姉の健状ぶりを声のみであったが確認したので、声を出し続けていると身体がそれだけに衰弱するからと、お互いに慰めあった。

 しかし橋本兄、弘子姉の声がしない。2人の名前を呼ぶも返答しない。間を置きながら繰り返し呼ぶが、声がきこえない……。

 しばらくして、橋本兄の声がした「大丈夫だ」との声。どうして外に出たのか?屋根の上から賢治兄の声である。

 「等さん……弘子さん……」くり返すが、声は返らなかった。

 賢治兄は、妻弘子さんの救出にかかるが御本堂の倒壊したその下になっている。すぐにどう対処してよいかとまどう。

 数分経ったころ、秀樹さん、知愛さん夫婦が別棟の庫裡の方から声がした。

 「ウワァー大変や寺が倒れてるぜ」大声が聞こえる。

 

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 倒れた屋根の上を歩いて来るようである。「大変や、ウワァ……、大変や……兄さーん、姉ちゃんー、文雄さんー」悲壮そのものの叫び声である。

 こちらから「オーイ、秀樹ちゃん」精一杯の声で応答し場所の確認をする。

 その間に姉和子さんは自力で這い出したようである。私は全く動くことが出来ず、賢治兄さん、秀樹さん、知愛さん達で助けにかかってくれた。

 屋根が落ち少し空いた所から中を覗いてくれるが、うす暗くまた、木が重なり合いどうにもならない。

 瓦を取り除き救出にかかってくれた。

 中に入れる状況にする迄、重なった棟木、柱、瓦礫等々、体を出す隙間をつくるのが一苦労、賢治兄さんからの指示で自動車のジャッキ、それから鋸を持ってくる様にと……。

 秀樹ちゃんから隣近所の方々に応援を求め、何人かの協力をいただいた。

 私は上半身、両腕は大丈夫と確信していた。幾分上が空けられ木を足場として、下敷きになっていた私を出そうと上から手を伸ばし、私は両手を必死に伸ばし固く握り合った。

 「引くよ……イチ、ニイ、サン……」私の下半身は木に押さえられたままだから、激痛が走った。痛い。…… 大声と同時に目から火が飛んだ。それは体を引き裂くことだから……蛙を引き破る言葉である。

 「ヤメてくれ、止めてくれ」……そんなやりとりの中で引き出せる隙間をつくってくれ、今度は上から差し入れた首に両腕をまきつけ、屋根の上に救出された。その時間は午前七時五分のタイムを示していた。

 この時の時計は、今に震災の遺物として数秒も変わらず、今も日々の生活に私の左手で時を知らせてくれている。
 16日の夜、私は風邪気味のために風呂を断った由に、左手に時計を着けたまま床に臥したので、今でも私の一生大切な貴重品として使っている。SEIKO QUARTZ JAPAN5931

 私は骨折のためどうにも動けない。外気は昨夜からの冷え込みで凍りつく状況である。秀樹ちゃんが「このままではいかん、毛布を持って来てあげて……」知愛さんが庫裡から屋根づたいで運んで来てくれた。毛布にくるまれ精神的に安堵する。「九死に一生を」……心の中で何度もそう言った。また感謝した。

 ・助けられ 九死に一生 この命 どんな生き方 生きゆく道は
 ・となり寝る 兄姉二人 犠牲となる 佛となりて 冥福祈る

 

○ [震災現場と必死の救助]
 私は屋根の上に毛布に包まれ救助の搬送までじっと耐えた。

 午前7時を過ぎ周囲の動転と一変した状況が目に入る。

 それは昨日の街とは想像も出来ない変わり果てた惨状である。

 寺の家族の住む庫裡は傾いているではないか。義孝さん夫婦、孫達、知愛さんのうちから毛布を出して当ててくれている。

 「みんなどうですか……何とか大丈夫」との返答で一安心。

 屋根の上から目につくのは、燃え上がる黒煙で晴れていた空が、次第に変わってゆくではないか。東の板宿、鷹取の方では、すでに火災の立ち昇る惨状、不安と恐怖で心が痛んだ。

 賢治さんは弘子さんの救出に必死である。寝床についた場所は右の端であるから、その場所のままであれば、おおよその見当がつく。隣組の方が数人救援に来てくれ手助けをいただく。瓦を剥がしながら弘子さんを呼ぶが声は返らない。

 場所を少し変えつつ、生存を祈りながらみんな必死の作業である。

 一方で救急の手配を交番にしたとの知愛さんの連絡である。刻々と時間は過ぎてゆく。私はどうすることも出来ず、寝かされたままで弘子姉の無事救出を祈るばかりである。

 空は黒煙で夕暮れの感じ。板宿の方、それから近くの郵便局附近が火災となる。灰色の煙と火柱が見え、その灰が飛んでくる。

 作業するみんなも刻々と変わる周囲の状況を気遣いながら不安である。

 地震が早い時間であったから、朝の炊事等で火を使っていないこのことから火災の発生が少ないと判断する。

 この状況で、もし火が出ていたら荼毘に伏されるも当然、哀れな不吉な予感に覆われる。

 救出作業も数人の方達で一生懸命すすめるが、道具がなく折れたタル木をテコにして、隙間をつくるのがやっとではかどらない。

 午前9時頃だったと思われる。近くの学校附近、南側の国道附近に火の手が上がり、風の向きから灰は飛んでくる状況で、火の接近を危ぶんだ。

 恐怖心がつのる中、弘子姉の一刻も早い発見を願っていた。賢治兄の声、「弘子、弘子」と叫ぶ声、それは体の一部の発見であった。瓦礫に埋もれた頭部が兄の手によって探り当てたのであった。

 その状態は、既に元気な姉に戻ることのない姿である事が推測できた。どうか安らかに成佛して下さい。大変だったね。心痛の思いで手を合わせた。

 丁度その頃、知愛さんから救急の連絡をとった警察の交番所から、タンカをかついで二人が屋根づたいで来てくれた。午前9時30分頃と記憶にある。

 私は弘子姉の確認ができたことで心がやすまった。

 タンカに乗せられ凸凹の屋根の上から無事に前の道路に下りたが、その道路は住居の倒壊で通常の状況では通れない惨状である。

 河川公園のところに搬送車を置いてあるとの事で、100メートル位であろうか運ばれた。搬送車は救急車でなく古びたワゴン車であった。

 救助の連絡をとってから約2時間半の時間が経っていた。

 どこの病院へ運ばれるか、無線で連絡しているが、火災で通れない。道路もズタズタで通行できないとの話である。

 やっと行く先が決まったことで走り始めた。

 車の振動で息を呑む。車窓から見える光景は炎と煙、なんと戦場の有様である。

 目につく家は殆とが傾き、倒壊している様子。

 また、ビルも傾き街全体が騒然とし、これはなんと地獄の沙汰であろうか。

 私は多くの方々の救援をいただき助けられた。搬送される車の中で、感謝の涙が止まらなかった。

順照寺で救援をいただいた方は知愛さんが調べていてくれた。大田町8丁目土橋さん親子、野崎憲一さん、大田町7丁目鍬崎さん、長谷川恵一さん、5-8池内文化と記されていた。

順照寺から運ばれた先は新須磨病院であった。

 
 

 
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