地域のために震災復興事業の紹介記念誌「阪神・淡路大震災の記録」映画「ありがとう」映画「ありがとう」 記念誌「阪神・淡路大震災の記録−鎮魂と復興の願いを込めて−」
     
 
  13章 『あの日』を忘れない
小林 文雄 
 
         
  ○ [阪神大震災から6年]
 阪神大震災から6年(2001年1月17日)、今年も犠牲となった6432人に追悼する灯りがともった。

 激震地を中心とする被災地はもちろん、高松中央公園においても家族連れがローソクの灯りに神戸への『励まし』の思いを託した。私にとっても生涯忘れ得ぬ、この震災の、生の体験者として「あの日、あの時」を思い、犠牲となった故横井等さん故橋本弘子さんの冥福を祈り、忘れられないそして永久にあの時の有様を後世に伝えることが、命を与えられた私の使命であり、6年の歳月を迎えた今日、故人の7回忌法要を期に往時の惨状を記したメモ帳と九死に一生をいただいた病院生活の日々を、断片的であるが寄稿させていただいた。

 

○ [伯父の法要と人生たどる道]
 1995年1月16日(平成7年)、神戸市須磨区大田町8丁目2-3慈光山順照寺前住職故善本秀暁伯父の7回忌法要の日である。

 この日は前日が15日で日曜日、全国各地で新成人式の祝賀行事がおこなわれ、休日制度も改められて日曜日が祝祭日であれば翌日が代休の日となり、16日当日はその休日であった。その為か、朝から街ゆく人達も多く、交通機関も混雑していた。

 故秀暁伯父は、平成元年に逝去された。私は当時飯山町役場に勤務し、町行政の麦任者町長を補佐する立場(助役)として日々不規則となる日課で業務に専念していた。

 このことから伯父の葬儀、告別式、また3回忌の法要には、焼香を済ませ、伯父をしのんでの回顧、会話後の日帰りで参詣させてもらう忙しい日課の状況であった。

 平成6年9月30日付で私の職務(特別職助役)も2期8年の任期満了となり、議会での挨拶、長年お世話になった職場への最後の挨拶、自分の生涯の大半を専一に捧げた歳月、胸中万感の想いの挨拶を思い出す。

 また数少ない香川県史に残る平成6年は、大旱魃の年で6月下旬から降雨なく、9月28日の台風による雨の恵みでやっと渇水対策本部を解除した有様、その間水道水の時間制限、ついには町内の各地給水車による対応等々、徹夜勤務で汗を流した暑い夏で忘れ得ぬ戌(干支いぬ)年であった。

 この年の11月には息子清文の結婚式等々で慌ただしい一年で終わった。叔父様の7回忌の法要の案内状は、住職義孝様より年内早目のご案内をいただいた。このことから、私は早くから7回忌法要には、時間的に余裕も有りゆっくりと詣らせていただく考えであった。

 秀暁伯父の兄弟は4人で故桑嶋貞義兄が本家を継ぎ、秀暁様は幼少の時から病弱で僧侶の道にすすみ、より子坊守様とご縁をいただいた。三男弟は横井豊三郎伯父、続いて妹つるゑが私の母である。

 7回忌法要には豊三郎伯父、母つるゑも健在で是非焼香すると元気であったが、新年を迎えた頃からインフルエンザの流行で風邪をひき、結果的に兄弟が揃って参詣は出来なかった。

 このように郷里からは、甥に当たる桑嶋冨泰、私文雄、伯父の子供夫婦、それは高松在住の横井等・和子夫妻、飯山在住の橋本賢治・弘子夫妻、2組のおしどり(計6人)が一緒に参詣することとなった。

 弘子姉から聴いたエピソードがある。姉和子さんの主人等さんは、法要に参詣するに当たり順照寺の本堂では泊まらないよ、他の宿泊場所なら、1泊するとの話が出されたようである。

 私は伯父の法要であるし、寺で泊まり、ゆっくり伯父を偲ぶことが一番であることを主張した覚えがある。等兄さんも不意の様であったが同一行動をとってくれたらしい。

 
 

 
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