地域のために震災復興事業の紹介記念誌「阪神・淡路大震災の記録」映画「ありがとう」映画「ありがとう」 記念誌「阪神・淡路大震災の記録−鎮魂と復興の願いを込めて−」
     
 
  12章 「阪神大震災を回想して」
横井 正明 
 
         
 

 最初に、震災で犠牲になられた方々の御冥福をお祈りすると共に、被害者の方々に御同情申し上げます。

 思いおこせば、確か平成7年1月17日の寒い寒い朝の6時前の時刻。寝床で激しい揺れを感じた。呆然とした頭の中で、地震であることに気付いた。

 激しい揺れは、ギシギシと家全体を軋ませて、これでもか、これでもかと断続的に激しく揺れたので、これは大変と飛び起きて戸外へ出なければと考えていると、漸くその揺れは治まった。

 経験をした事も無い大きな地震に、只事ではない事柄が発生していることが感じ取れ、即座にテレビのスイッチを押した。

 すると、道路に大きなビルが倒れ掛かり、アナウンサーが大きな声で神戸を震源とした大地震が発生し、大規模な被害が出ている模様であることを、伝えていたが、報道の様子から漠然とした状況しか把握出来ていない状態であるようであった。

 出勤の時刻に急がされて、高松市内の会社へと車を走らせた。車窓から2、3のビルの外壁のタイルやモルタルが少し剥がれ落ちている程度で、さほど被害を受けている状況では無い様子であった。

 社内では朝方の地震の話と、テレビの臨時ニュースの報道に、仕事どころではなく、阪神地方との連絡が全く取れず、大混乱している上に、刻々と被害の状況が明らかに成るに従って、人的、物的な被害の甚大さに驚かされた。

 神戸の須磨区周辺には、従兄弟の善本家の人々が住居を構えており、その安否が心配されたが、連絡が取れないまま夜を迎えた。

 帰宅すると、神戸の伯父の7回忌の法要に、桑嶋、小林、橋本夫婦、横井夫婦(高松市)、の6名が16日に県内より出席しており、桑嶋冨秦氏(17日の勤務の都合で帰宅)以外の人々はお寺で宿泊していたとの事。私の父豊三郎(義暁伯父の弟)は、風をこじらせ、床に伏していたので、己むを得ず欠席していた。

 夜になっても神戸方面からの連絡も無く、こちらからの連絡も取れず、冨秦氏と、清兄と、私との3人で、今後どの様に対応しようかと相談したが、結論に至らず、夜が更る。(この時は、悲惨な状況に置かれているとは想像も出来なかった)

震災の様子

 以後については、他の人達によって詳細が記述されていると思われるので、私は省略させて戴くことにする。

 阪神大震災以後に、台湾や、インド等に於いて、それ以上の大きな被害が出る地震が発生している。

 火山の噴火活動では、三宅島の住民全員が半年以上過ぎた今も避難生活を強いられており、何時帰れるか当ても無く路頭に迷っている。

 最新の情報によると、富士山が永い眠りから覚める様な兆候を伺わせているとか?

 日常何も不安を抱くことなく、生活しているこの大地が瞬時に崩壊する事も万一有るかも知れない。

 しかし、私達は毎日、その様な事が起きると意識しながら生活をしているわけではない。

 先日蟹江銀さんが、108歳で天寿を全うされたと、報じられていたが、私は随分長生きされたなあ、と感じたが、よくよく考えてみれば、地球とか、縄文杉の年齢と比較すれば、私達が生きている聞のこの世はほんの一瞬である。

 予期せぬ災難や不幸に、何時遭遇しても後悔しないよう、一日、一日を大切に生きることを、心掛けたいものである。

 少し話が変わるが、阪神大震災では数多くの鉄道や道路の高架橋、そしてビルや建物が倒壊し、あるいは大被害を受た。

 40年間近く土木工事の技術者として、そして京阪神地方で多くの新幹線の高架橋や、阪神公団の高架橋を造ってきた私にとっては、自分達で造った構造物が、あの地震に耐えてくれたか、否かが、大変気にかかる事柄であった。

 多くの人達の汗と、血の滲むような苦労を重ねて造った品物である。(息を吹きかけ、手塩に掛けて育てた貴重な花みたいな感じ)幸か、偶然であったか、私が従事して造った高架橋は、その難を逃れていたのである。

 私は一瞬、胸を撫で下ろすと共に、自分が丈夫な間は、壊れないで長持ちしてほしいと願った。この世の万物、形が有る物総て、永遠ではない。あの明石海峡大橋や瀬戸大橋さえも何時かは朽ちる、増して人の命は儚い。

 誰しも永遠を求めつつ、永遠でない現実を認識し、余生をどの様に過ごしてゆくべきか、模索する今日この頃です。

 最後に一句
 御仏に 念ずる日々ぞ 近付かん

 平成13年3月吉日

 
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