地域のために震災復興事業の紹介記念誌「阪神・淡路大震災の記録」映画「ありがとう」映画「ありがとう」 記念誌「阪神・淡路大震災の記録−鎮魂と復興の願いを込めて−」
     
 
  11章 震災の思い出
桑嶋 千鶴子 
 
         
 

 あれは6年前の1月16日の夜のことでした。
 故秀暁叔父様の7回忌の法要を終えた主人を坂出駅で出迎えました。帰宅途中の車の中で、主人は「一緒に行った、いとこの皆さんは、寺で泊まっている。現職の身である自分は一足先に帰った」と残念がったものです。

 その翌朝予期しない、あの大震災が起きました。平成2年に建築した我が家は、壁のちりが切れ落ちた程度でしたが、それでも、2階で寝ていた私達は、四這いになって揺れのおさまるのを待ったほどでした。

 間もなく、テレビで被災地は神戸であることがわかりました。夕方になって、弘子さん、横井等さんの死亡が、テレビで放映されると、主人は「自分も泊まっていたら恐らく死んでいただろう」と言い、「早く神戸へ行かなければ」と言いますが連絡は取れず、その夜遅く主人と一緒に、文雄さんの安否を気づかう孝子さん、つるえおばさんの家に駆けつけました。幸い、医者から連絡があり文雄さんは、怪我をして病院に運ばれており命に別状はないとのことでホッとしました。しかし神戸の家族のこと香川県から参詣した人達の消息がつかめず不安な夜を過ごしたことを覚えています。

 先日、秀暁叔父様の13回忌の仏事にお参りする為、順照寺を訪ねました。そして驚きました。震災直後に主人と弘子さんの遺体を引き取りに行った時の瓦礫の街が、一変しておりました。何より本堂が立派に再建されていたこと。そして震災があったとは思えない近代的な街並みに感慨もひとしおでした。

 仏事を終えて、懇親会場までの道すがら、橋本さんが当時の様子を話してくれました。「あのビルの向こうが弘子さんや等さんの遺体が収容されていた体育館、このあたりまで火が迫っていたこと、空が鉛のように暗くなったこと」などを聞きました。

 又きれいな家並みのところどころに空き地があり、今だに住み馴れた土地に帰れない人、神戸を去っていった人がいることを知りました。

 神戸の街はみごとに甦って、震災のあったことが嘘のようになりました。しかし、時がたつにしたがってその傷あとは、心の奥底へと沈殿されていくようで、悲しく思いました。

 和子さんが等さんへの、橋本賢治さんが弘子さんへの、それぞれの思いは、事に触れるたび、新たな痛みを呼びます。当事者でない私は、我が身であればと思っても癒す術もない自分にむなしさを覚えます。

 生まれ育った神戸を離れ遠い讃岐に移り住み、さぬきの人となった和子さん、弘子さん、いつも2人は仲良く助け合っていたことを、知っています。

編集会議を終えて

 不運にも、弘子さんは両親の眠るふる里神戸で最後を迎えました。ほんとうに悲しい出来事でしたが、これも定めかと思います。

 老後を過ごすため神戸へ帰った和子さん、香川で独り住まいの橋本さん、皆さんで連絡を取り合い、お互いより良い余生にしようではありませんか。

 
このページのトップへ

お問い合わせ・ご相談フォームへ