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  9章 終りの時
故 横井 豊三郎 
 
         
 

 1日にも、1週間にも、1ヶ月にも、必ず「終りの時」が用意されています。とうとう、今年も、その「終りの月」を迎え、あと二旬で新年を迎えることになりました。私ごとですが、旧臘中頃から体調を崩し、医師のお世話になりながら正月を迎えました。数えてみるとこの世に生まれて、32,328日目の元日でした。歩行も思わしくなかったので、恒例の寺詣りの行事に参加できませんで、ひたすら回復を念じ養生につとめた正月月でした。

 私には晩年まで2人の兄が健在でした。7年前、その兄が前後して、他界しました。次兄は幼少から、弱体であったこともあって僧侶となり、縁あって順照寺の養子となり、大正の末期、神戸須磨に転居し生活していました。50年前の6月、大空襲で丸焼けとなり、阿弥陀如来さまのみ抱きかかえて逃げ、やっとのこと人災だけまぬかれました。一時古里で避難生活をしていました。戦災9ヶ年後本堂を復興し、本願寺派の寺としての護持に苦労したようです。その次兄の7回忌を1月16日に営む故、参詣してほしいとの案内をいただきました。当時私は健康体でありましたし、この機会が最後の上神と思い、是非参詣いたす心組みで、返信して置きました。ところが中頃から思いがけなく、体調を崩しました。でも当日までには、間合いがあること故、病気も回復するだろうと思い、養生につとめていましたが、正月を迎えても快方に向わず、心あせっていました折、姪から、無理をして行かなくてもよいのでないかとの慰めの電話をいただき、とうとう参詣することを諦めました。

 当方から故人の長次女夫婦と甥2人の6人が法要にお詣りいたいしました。甥の1人は翌日に公的会議があるため、その日の遅く帰宅しましたが他の5人は、久方振りの上神のこともあって一泊しました。ところが翌17日早朝の大地震にあい、休んでいた本堂が崩壊し全員が下敷きとなり、2人が即死、甥が3ヶ月の重傷を負う災難にあいました。

 若し私が行っておれば、老齢のこと故即死していた筈です。病んだために生きのびて今年の終りを迎えると思うと感無量であります。本来私のいのちは17日の朝つきる約束の身で、今のいのちは仏さまにお預りいただいている寿命としか思われません。

 願わぬ病気にかかり、詣りたい7回忌法要に行けなかったために、災害の現場に出会わず、死ぬべき約束の身が、行きながらえ、今日のあることは、私にとって、不思議の中の不思議としか思われません。これを自然法爾(じねんほうに)というのでしょうか。

震災の様子

 病体ながらも、年の始めには「今年こそは」と思ったことですが、何一つ実を結ばないのみならず、家事の手伝いもできず、世話になり通しの結果に終わりました。

 誰かに言われました。病で生きのびたのは、お前には、まだ、しなければならぬことが残っておるぞとの如来さまのお諭しといただくと、ありがたくもあり、責の重いことを感じています。のこる生命を空しく過ごさないため、さて何を急がねばならぬかを考えている年の終りの昨今です。

 病して、死にぞこないの
 老いの身はいつめされても
 みてのまんなか。

 
平成7年 12月 1日 記 

 

 「震災日 病んだおかげで 生きのびて卆寿の春を 迎えようとは」

     南無阿弥陀仏 

 「また一つ 年を重ねて み仏の 声をきけよの いのちなりけり」

 

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