地域のために震災復興事業の紹介記念誌「阪神・淡路大震災の記録」映画「ありがとう」映画「ありがとう」 記念誌「阪神・淡路大震災の記録−鎮魂と復興の願いを込めて−」
     
 
  6章 阪神大震災そのとき
善本 秀和 
 
         
   平成七年1月17日午前5時46分、戦後最大の震度7・3の大都市直下型地震が兵庫県南部に発生した。後に阪神淡路大震災となづけられたが死者6432人、30数万人が避難所で暮らすという大災害となった。

 橋本弘子と横井等さんが震災の犠牲となり小林文雄さんが重傷をおったことは、不慮の天災とはいえ、悔やんでも悔やみきれない。

 あの時刻に私は気がついたらベッドからふりおとさえていたが、必死になって何かにしがみついていた。よく世間で言われるように地震が起こったら、まず机の下に身を隠すとかドアを開けて逃げ口を作って置くとか言われているが、そんなことは机上の空論でM7程度の地震では何の役にもたたないものである。

 私の家は被害が少なく、家具類も壊れることなく、室内に散乱した程度であったので、外のあの惨状は夢にも思わなかった。あとかたづけをしていると、近所にいた次男の光広が飛んできて「今、診療所のビルが心配で板宿まで行ってきたが途中はひどい状況で火事も発生し、とんでもない事が起きている」と報告。電気ガス水道電話すべてのライフラインが停止しているので、全体の状況が把握出来なく、直ちに板宿に向かった。

 途中、全滅状態の須磨寺商店街を見て初めてこれは非常事態であるとおもった。天井川の近くの民家が火災、消防署が近くにあったので消防車がきていたが、水が出ないので署員がうろうろしているなかで付近の住民はなすすべもなく呆然と見ているだけであった。

 段々不安になってきた。お寺が近づいて来るに従い私の心臓は大きく音をたてて鳴り止まらない。お寺は大丈夫だろうか。

 昨日、父の7回忌の法要があり、そのあと板宿の中華料理店で四国からきた横井夫婦、橋本夫婦、桑鴫冨泰さん、小林文雄さんらと打ち上げの宴を開き、遅くまで歓談し、大いに盛り上がっていたことを思い出す。冨泰さんは所要のため帰ったがその他の人たちは本堂で一夜を過ごしたはずである。

 お寺は私の不安どおりに全壊していた。弘子と等さんは即死、文雄さんは重傷、和子も頭に挫傷、庫裏にいた住職一家はなんとか無事であった。

故 横井 等とケガをしたが治った妻の和子
故 横井 等とケガをしたが治った妻の和子
 弘子と等さんは近所の市営住宅の一室に安置されたが、その後体育館に移された。文雄さんは国立病院に入院、和子も念の為日赤病院に搬送された。

 そうこうしていると、長田から出た火災は西へ西へと広がり、市民は続々と避難してきた。体育館に安置された遺体は時間を追う毎に増え、廊下にまで置かれる状態であり、まさにこの世の地獄である。余震の続く中で人々は、ただただ遺体を見守りながら、この先どうすればいいのかわからず放心状態の人が殆どであった。

 川嶋葬儀杜の好意で、翌日遺体は西極楽寺に移された。

 その後、四国の等さんの親族および冨泰、正明さん等が道に迷いながらもなんとか車でかけつけて来てくれたのには、涙のでるほど嬉しかった。19日には等さんが、20日には弘子の遺体が、それぞれ車で四国に運ばれ荼毘にふされた。当時は火葬場も被害をうけた上、収容能力の限界を超えていたので遺体をどうするかは大きな問題であった。私には公の仕事があり、そのことでも頭の痛いことが山積みしていた。兵庫県歯科医師会の常務理事として、また兵庫歯科学院専門学校の理事長・校長としてやらなくてはならない事が多く、毎日、車で裏山を通り4時間かけて歯科医師会の対策本部に行き、救急歯科診療所の設置、警察への遺体識別協力、被災会員への見舞い・緊急融資等を実施していたことが昨日のようである。

 あれから6年、1月6日と7日に四国で等さん、弘子の7回忌が営まれた。

 私たち夫婦は1月17日早朝5時46分に須磨寺境内にある震災慰霊碑に御参りして手をあわせた。たまたま、そのとき宝物館にて震災7回忌追悼の砂曼荼羅法要が行われていた。ネパゥルから来た6人の僧が砂曼荼羅の前でお経をあげていた。初めて見る光景で私たちはあらためて合掌した。

 このような非常事態のとき、人々は他人に気を配りながら、お互い励まし合って手をとりあうものであることを実感した。隣の人は何をしているのかも、また名前も知らない都会の暮らしの中で私たちはあらためて社会のありかたを考え直す機会であったことと思う。

 また、若者たちはよく働いた。信じられないくらい老人たちに尽くした。日常の挨拶も交わさない者と考えていたが、指示に従って、あるときは率先して他人のために大いに働いてくれた。心身ともに若者には素晴らしいエネルギーがあったにちがいない。私たち人生の先輩は、この若者のエネルギーを大事に育てていく責任がある。

 震災7回忌に際し、当時の様子を記録し、あわせて私の感じたことを述べる次第である。
 
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