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  4章 弥陀の慈悲に生かされて
善本 秀樹 
 
         
   余寒の中にも自然は本格的な春の盛りへの装いを整えていく頃となりました。早いもので、あの大震災から6年目、7回忌のご縁の年になり、この時期に今一度あの大震災はこの私にとって何だったのか、色々と私なりにあの時の記憶が日ごとに薄れていく中、考えてみたいと思います。

 平成7年1月17日午前5時46分、まさかの神戸の大震災。順照寺本堂はあの大きな揺れになんとか耐えながらその揺れの直後、凄まじい轟音とともに瓦礫と滅してしまいました。私達は幸いにして助かりましたが、横井の叔父、橋本の叔母が私達のかわりに犠牲になりました。あの日の状況は、言わずとも周知の通りであり、まさに悲惨でありました。私自身、あの時は順照寺はこれからどうなるのか、住職としてこの状況をどう受け止めていったらいいのか、正直言って逃げ出したい気持ちで一杯でした。

 思うに、横井の叔父とは会うたび酒を酌み交わしながら、夜遅くまでいろいろと話し、常に私のことを心配してくれていたことが懐かしく思います。

 橋本の叔母は私にとって母親に代わる存在であり、小さい頃から「秀樹ちゃん、秀樹ちゃん」と我が子のように呼んで、可愛がってくれました。

 どんな思いで2人は亡くなっていったのか、叔母の夢をこの時期になるとよくみます。叔母は必ず私に「みんな共に仲良く暮らしてね」そして「伸君のことはよろしく頼みます」と。

 檀家も約七割の方々が被災され、内20人が瓦礫に埋まって亡くなりました。その中で、瓦礫に埋まって何とか助かってはいるのに火の気がまわり亡くなった方もいます。人が目の当たりに死んでいく人のあの叫び声、臭い、煙り、ほこりを忘れることは決してできません。まさに地獄を観た思いがしました。

 この世は無常であるということは、ことば、知識では知ってはおりました。常無し、刻々と変わっていく、まさかまさかの連続の中で生きているということを、あの大震災を機に無常というのを教えとして受け止められるようになりました。

 あの大震災はこの私を大きく変えてくれたのです。それまでは住職になって一年あまり、住職は立派な人やと世間の人に言われるようになろうと意気込んでいました。中身のない、伴わない形だけの私でありました。しかしあれからは世間でいう、地位や名誉、権力というものは一切当てにならないということ、むしろ、今の政界のように人はおかしくなり悪いことをする、また私達人間の作ったもの、形ある物は必ず崩れていく、この私も同じくその姿、形を常に変えつつあるんだということに気付かされました。

 そこで、この私は今何のために生き、生かされているのか、それは何よりも、この無常の世の中に生きているこの私を哀れみ、救わんがために願いをかけられ、祈られている阿弥陀如来の教えに遇わんがためにこの世に生まれ、生きているのであると確信できたのです。大いなる、必ず救うという阿弥陀如来の願いの中にこの私は生かされている。このことが間違いでないからこそ、真実であるからこそ、この世に縁ある限りいつどのようなことで、命終わろうとも死んでいこうとも安心して生きていけるのではないかと思うのであります。

 現在、お陰さまををもって、本堂再建を有縁の方々のご支援により何とか成し遂げることができました。私自身、お寺の子として生まれたことを本当によかったなと喜べるようになりました。佛教とはこの凡夫、罪悪深重の悪人としてでしか生きていけないこの私が佛となる教えであります。このことは、よくよく考えてみれば本当に不思議なことであります。阿弥陀如来は十方衆生を救うと誓われました。大震災で亡くなった方々とまた共にお浄土で会えるのです。 阿弥陀如来の教えは、思うに温かい、やさしい教えであります。 この教えを私はこれから色々な出会い、ご縁を通して一人でも多くの人に知って頂き、子や孫に伝えていくことが、一日一日の生活を通して大切なことであると思うのであります。
ありがとうございました。  合掌  南无阿弥陀佛
倒壊した本堂
震災後の仮本堂
 
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