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3章 慰めあう心 |
善本 義孝
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月日が経つのは早いもので、今年は阪神大震災で亡くなった人々の7回忌……まるで昨日今日のような出来事である。人生の別れという定め、聞いただけでいやであり、悲しいことであるが、厳しい事実として私達は一人も例外なくこの目に逢わなくてはならない。そして、別れを悲しみつつ朝夕を送っていかなければならない。 これが私達の人間の相である。忘れようとつとめても思い出される切ない悲しみ、それは、なんともしようもない。そして、生前好きであったおいしい物も、きれいなお花も、何もかも、これと思うものは心ゆくまでお供えしてあげてください。しかし、それだけでは淋しいことですね。 広島で「問うてあげなさい」という言葉がある。それは訪ねてあげる、慰めてあげる、気持ちを聞いてあげる、願いや望みをかなえてあげる、というような色々な深い意味を含んだ懐かしい、美しい言葉である。ちょうど、そのように亡くなった方々に、あなた方の精一杯の心からなるお供物やお花を捧げて、問うてさしあげるわけであるが、同時に、亡くなられた方々の気持ちや願いを間うてあげねばならないでしょう。即ち、夜も寝られないほど悲しみ、嘆き、愚痴を言ったあげくに、あなた方は、むしろ残された私こそ亡くなった方々から案ぜられ、心配されていることに、目覚めていただかなければならないでしょう。 「誰々さん、あなたも私と同じ事になる身ですよ。あなたが、先に亡くなった私の事を思ってくださるより、生き残っているあなたの事が私には案ぜられます。お願いです。早く御法を聞いて正しい信仰に入って、再び笑って会える日を待たしていただける身になってください。それが真の人生に生まれた幸福(しあわせ)ですよ……」 この切なる願いをあなたが受け取った時、亡くなった方々は心から喜ばれるに違いない。よく考えてみよう。われわれは、この悲しみの涙は生涯忘れられない悲しみであろうと思うが、日が経つにしたがって、いつのまにやら涙も悲しみも出なくなってしまう。淋しいことだけれども、これが私たち人間の薄情な愛情なのである。
だから、亡くなった方々を心から思っていられる今こそ、私たちは自分自身が案じられておる身であることを気づかせて頂き、永遠に朽ちないお念仏の道に入ってこそ、亡くなった方々といつまでも離れず、問うてあげられる繋がりが保てることを大切にしよう。 悲しくは南無阿弥陀仏を称ふべし われも六字のうちにこそ住め 悲しみは失せ、涙は乾いても、ご命日は忘れるようになっても、お念仏だけはお互いの問う心、問われる心として距離はない。姿は亡くなっても、いつも私たちの胸の中に住んでいられることでしょう。 生かされて生きる命を大切に。 |